岐阜地方裁判所 昭和47年(ワ)84号 判決 1974年3月25日
原告
水口伸二
<外二名>
右訴訟代理人
平田省三
被告
日本赤十字社
右訴訟代理人
土川修三
主文
被告は原告水口伸二に対し金一、一九八万七、二五五円、原告水口達彦、同水口桂子に対し各金一六〇万〇、〇〇〇円および右各金員に対する昭和四七年三月二四日以降それぞれ完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は第一項に限り仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一、請求の趣旨
(一)、被告は原告水口伸二に対し金二、八八〇万〇、〇〇〇円、原告水口達彦に対し金三一〇万〇、〇〇〇円、原告水口桂子に対し金三一〇万〇、〇〇〇円および本訴状送達の翌日以降各完済迄年五分の割合による金員を支払え。
(二)、訴訟費用は被告の負担とする。
(三)、仮執行宣言
二、請求の趣旨に対する答弁
(一)、原告らの請求を棄却する。
(二)、訴訟費用は原告らの負担とする。
第二、当事者の主張
(請求原因)
一、(当事者)
原告水口伸二(以下、単に原告伸二という。)は昭和四四年一二月二二日生れの男児で、原告父水口達彦(以下、単に原告達彦という。)、同母水口桂子(以下、単に原告桂子という。)の二男である。
被告は日本赤十字社法により法人格を有するもので、定款に定められた業務の一である健康増進、疾病予防、苦痛軽減、その他社会奉仕のための事業の一環として、高山市においては綜合病院高山赤十字病院(以下、単に被告病院という。)を経営し、小児科医、眼科医等を雇傭して医療行為にあたらせている。
二、(被告の治療の経過等)
(一)、原告桂子は昭和四四年一二月二一日午後五時ころ陣痛発来し、早産が予想されたので、設備の整った被告病院に入院し、翌二二日午前一時四八分原告伸二を出産したが原告伸二は未熟児のため直ちに哺育器(クベース)に収容され、被告病院の担当医の管理下において看護保育されることとなつた。
(二)、ところで、原告伸二の如き未熟児が哺育器に収容されて保育される場合には、器内に使用される酸素の作用によつて未熟児の後部水晶体に血管の異常増殖を来たし、これが原因となつて失明するに至る事例が往々にしてあるのであるから、かかる未熟児の看護保育を委託された病院担当医としては、出生後より三ケ月位までが最も危険とされているので、その間一、二週間毎に定期的に反覆して未熟児の眼底検査をなし、酸素の使用を機械的に行うことをせず、小児科医、眼科医が一体となつて周到な眼底管理をなし当該症状(水晶体後部線維増殖症又は未熟児網膜症という。以下、単に網膜症という。)の早期発見と、ステロイドホルモン投与等による早期治療とにより、患児を失明から護るべき注意義務が要請されるのである(網膜症は早期治療によつて失明をまぬがれるものとされる。)。又、その症状の進行状態に留意して、いやしくも自己の手に負えなくなるような場合には、機会を失わず直ちに他の適切な治療を期待できる医師の許に紹介するべきであり、これも又患児の治療を依頼された医師として当然なすべき善管注意義務である。
(三)、しかるに、被告病院では前記の如く原告伸二を哺育器に収容したまま、その保育期間に小児科医が三度も短期間内に交替する等して、原告伸二に対する全身的管理を怠り、漫然酸素の使用をして眼底管理を怠り、漸く昭和四五年二月四日(日令四四日目)に至りはじめて眼底検査をしたものの、その時には既に両眼とも眼科医が驚く程血管が迂曲、怒張し、右耳側下方に小出血あり、左外上方周辺網膜は灰白色に混濁していたのに、二月一二日(日令五二日目)に至りはじめてステロイドホルモンの投与をなすに至つたがその後症状は悪化するばかりであつた。
(四)、そして、同年三月一一日ころになりはじめて、漸く原告父母は被告病院から原告伸二の失明の危険を知らされ、同時に訴外天理よろづ相談所病院(以下、単に天理病院という。)の眼科医を網膜症の大家として紹介をうけ、同月一六日天理病院眼科の診察をうけたが、既に原告伸二の右眼は失明(網膜症オーエンスⅤ期)しており、左眼はオーエンスⅢ期であつたので、左眼だけでも助けようといわれて光凝固法による手術をうけたが、既に手術の時機を失していたため成功せず、父母の祈りも空しく遂に両眼とも失明するに至つたものである。
(五)、なお、オーエンスⅢ期へ移行した二月一二日ころが当該治療の適期であつたが、二月一二日から三週間位の間(三月五日ころまで)ならば、原告伸二は完全とまではゆかないまでも、多少の後遺症が残る程度には治療可能であつたのであり、少くとも進行の遅れていた左眼だけでも助かる見込みは充分あつたものである。
(六)、天理病院においては、既に昭和四二年三月二四日と同年五月一一日において網膜症の光凝固法による手術に成功しており、その成功例は昭和四三年四月号「臨床眼科」誌(二二巻四号)その他の専門誌上に発表されており、その後も成功例が度々誌上で紹介されて来ているのであるから、原告伸二が罹患したと思われる昭和四五年一月ころには一般眼科医としては、網膜症に対する最も確実な治療法として、天理病院における光凝固法による治療法を当然知つておるべきであつたし、又事実被告病院の担当医師はこれを知つていたものである。しかるに、被告病院は原告伸二の病状の進行状況に充分留意せず、漫然ステロイドホルモン投与による薬物治療法のみに頼つていたため、不注意にも原告伸二をして最もよい時機に最も効果的な光凝固法による手術をうける好機を失わせてしまつたのである。
(七)、かくの如く、原告伸二が失明するに至つたのは、第一には、被告が原告伸二に対する全身的管理を怠り、漫然酸素の使用をなし、原告伸二に対する眼底検査を生後四三日間も怠つて、網膜症の予防と早期発見をなしえず、更に、昭和四五年二月四日初診時の右眼の赤道部小出血、左眼周辺網膜の灰白色混濁というオーエンスⅡ期に該る症状をオーエンスⅠ期と誤診判定し、当時の早期治療方法の常道として当然なすべきステロイドホルモンの投与を直ちに指示せず、発見後も直ちにステロイドホルモン等の投与もせず、九日間も放置して早期治療に努めなかつたこと、第二には、医師は医師法第二三条により療養方法等指導義務を負つているのであるから、担当眼科医としては眼科の悪化の傾向を認めたなら、原告伸二の父原告達彦らに対し、自ら積極的に原告伸二の網膜症発症の事実、進行状況、治療経過並に今後の見とおしと治療方法等につき担当眼科医として自ら認識し、知識とし有する一切の資料を披瀝、説明して、療養方法等の指導をなす義務があつたのに拘らず、担当眼科医K・S医師(以下、単にS医師という。)はかかる指導相談を全くなさず、当時既に成果の発表されていた光凝固法の存在を原告達彦らに知らせ、その手術を受けしめることを怠つたという二重の過失によるものである。被告は右病院の経営者とし、原告伸二の失明により、同原告および原告達彦、同桂子が蒙つた損害を、原告伸二に対する看護、保育、治療に関する準委任契約もしくは請負契約上の債務不履行により、又は不法行為により、これを賠償すべき義務がある。
三、(損害)
右原告伸二の両眼失明による原告らの損害は以下の如くである。
(一)、(原告伸二の得べかりし利益)
原告伸二は両眼失明により労働能力の一〇〇パーセントを喪失し、満二〇才から五五才までの労働により得べかりし利益の現価金八〇〇万〇、〇〇〇円を失つた。
(二)、(原告伸二の慰藉料)
原告伸二は一生暗黒の世界に生き続けねばならずその精神的苦痛は想像に余りあり、これを慰藉するには少なくとも金二、〇〇〇万〇、〇〇〇円が必要である。
(三)、(原告達彦および同桂子らの慰藉料)
原告達彦は立命館大学を卒業し、現在高山市内の高校に教師として勤務するものであり、原告桂子とは昭和四三年四月一八日婚姻したものであるが、愛児の失明により同原告らの受けた精神的苦痛は正に死亡にも比肩すべきものであり、これを慰藉するには少くとも各自金三〇〇万〇、〇〇〇円が必要である。
(四)、(弁護士費用)
原告らは弁護士を訴訟代理人として本訴を提起するのやむなきに至り、その支払うべき費用として金一〇〇万〇、〇〇〇円(原告伸二金八〇万〇、〇〇〇円、原告達彦、同桂子各金一〇万〇、〇〇〇円)の支出を余儀なくされた。
四、(結語)
以上の次第であるから、被告は原告伸二に対し金二、八八〇万〇、〇〇〇円、原告達彦、同桂子らに対し各金三一〇万〇、〇〇〇円および本訴状送達の翌日以降各完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴に及んだ。
(被告の答弁および主張)
一、(答弁)
(一)、請求原因一の事実は認める。
(二)、同二の事実中
1、(一)の事実は認める。
2、(二)の事実中、哺育器内で、酸素によつて乳児の後部水晶体の血管異常増殖の生ずる例のあることおよびその原因で失明の例があることは認めるが、その余は争う。
3、(三)の事実中、原告伸二が保育された期間に小児科医が三度交替したこと、昭和四五年二月四日に眼底検査を初診したこと、その際血管が迂曲、怒張していたことおよび右耳下方に小出血があつたことは認めるが、その余は争う。
4、(四)の事実中、天理病院を紹介した事実および左眼に光凝固法をした事実は認めるが、その余は争う。原告伸二を除く原告達彦、同桂子らには、原告伸二出生の時、失明の危険を充分知らせており、原告伸二を除く各原告はその危険性を充分承知していた。
5、(五)、(六)および(七)の各事実はいずれも争う。
(三)、同三の事実は争う。
(四)、同四の事実は争う。
二、(主張)
(一)、(酸素投与について)
1、(酸素投与と網膜症・生命維持)
未熟児の生命維持のためには、その状態により、酸素の投与が必至であることは問題がなく、原告伸二は未熟児で出生当時僅かに体重が一、一二〇グラムしかなく、医師としては、生死の問題が中心であるべきであつた。未熟児に対する酸素投与が網膜症発生の因子の一つであることは近来大体確認されてきているものの、その酸素投与のみが因子であるとは断定されておらず、医学上網膜症の決定的原因は不明のままというのが現状であり、更に網膜症は無血管部位にも生じることから、酸素投与とも関係なく、網膜の低酸素、無酸素状態から発生することが実験上考えられ、前記の如く酸素投与の網膜症に対する一つの因子としての作用についても、その範囲の不明であることを考えると、結局網膜症の原因は不明といわざるをえず、網膜症と酸素投与の関係は明確に解明されたとはいえず、網膜症に対する医療法の確実な方法はない。仮に、前記の如く酸素投与が網膜症の一因子であることが認められ、酸素投与の加減により網膜症をある程度予防しうるとしても、一方酸素投与の制限によつて惹起する未熟児の特発性呼吸障害による死亡率の増加という過去の実例を前記の如き酸素投与が網膜症の決定的原因といえない状況の下で考えると、生命の維持が優先されざるをえない。これは、酸素投与の必要性即ち未熟児の生命維持と、その影響と考えられる網膜症とを対比して、網膜症の危険性と、生命の維持との比重性に対する医師の立場の問題であり、医師としては、現時においては当然生命の維持に重点を置かざるをえないことは当然である。それは、科学の問題よりは、人道上の問題が優先すると考えざるをえないからである。
2、(原告伸二に対する酸素投与)
(1)、(酸素投与量)
被告病院は原告伸二の呼吸不整、チアノーゼを対象として濃度三二パーセントないし二四パーセントの酸素を投与し、中止する二日前は濃度二五パーセントの酸素を投与しているが、それらはいずれも標準限度の四〇パーセント以下であつて、その間体重は順次増加し、体力の養成も順調であつて、生命維持に役立つたことは明らかであり特に過度の状況は認められない。
(2)、(期間)
投与期間は中止するまでの三七日間であるが、未熟児として最も低度の体重一、一二〇グラムでしかも呼吸不整の上にチアノーゼの続く未熟児に対しては、必要限度であつたといえ、且つ、徐々に酸素のパーセンテージを減じている事情等から考えて、漫然と無責任に酸素投与をなしたものでないことは明らかであり、当該三七日間の期間については何等瑕疵は存在しない。
3、以上の如く、本件の酸素投与には、何等医学上瑕疵を認めることはできない。
(二)、(眼底検査について)
1、(未熟児に対する眼底検査の必要性の普及とその時期)
昭和四一年に当時国立小児病院医長植村恭夫医師(以下、単に植村医師という。)により早くも網膜症について眼科管理の必要性が指摘されたものの、それは網膜症の早期診断、早期発見についての必要のみであつて、その指摘の中で治療手段については、ステロイドホルモン、ACTH蛋白同化ホルモンの使用が有効と報告されているが、自然寛解が多いためどの程度有効なのか、又他に有効な治療方法がないか模索中の段階である旨指摘されているものであり、結局その後も管理の必要性と治療の関係は不明であつた。がその後、前記天理病院の永田誠医師(以下、単に永田医師という。)において、同四三年に症例二例を示し光凝固法を発表し、将来網膜症の治療手段となりうる可能性があることを指摘し、同四五年に症例四例を示し、光凝固法による失明、弱視の防止への確信をはじめて発表し、同四七年に光凝固法の施行適期と判定基準を発表するに至り、漸く医学界においてその効果が認識され、その適期に関心が持たれ眼底検査の必要性が順次ひろがり、現今に至り眼底検査は常例的なものとなつてきたといえる。しかし、原告伸二の診断当時の同四四年は、前記の如く未だ光凝固法の確信的な発表はなく、医学界の確立した治療として確認されていなかつたものであり、眼底検査を施したとしても、光凝固法が確立されていないのだから、その検査結果を光凝固法の資料とすることはできなく、療法に対して効果はなく、唯網膜症の重軽度を診断するのみで、結局、従来のステロイドホルモン投与の要、不要の判断処理に対する効果に過ぎなかつたといえる。要するに、光凝固法の確立に至るまでは、眼科管理の必要性は認められてはいたものの、その治療手段の確固たるものはなく眼底検査の必要と治療の関係は不明であつたものであるから、当時の医学界からすれば被告病院には眼底検査につき瑕疵はないといわざるをえない。
2、(原告伸二に対する眼底検査)
(1)、本件における最初の眼底検査は出生後四四日目の二月四日であるが、それが遅きに失したかという点を考えるに、診断の早遅は、日時の経過をもつて考えるべきでなく、その診断の結果から、手遅れか否かを判断すべきであることは当然である。蓋し、症状の早期発見であるか否かが問題であつて、日時の問題ではないからである。なお、光凝固法をするためには、その前提として、オーエンスの度を査定するのであるが、それは少くとも通常の出生児が出生後三〇日以上を経てからでなければ、完全な診断は不可能であつて、しかも未熟児の場合、右期間では診断不可能である。
(2)、(診断の内容)
イ、本件の最初の二月四日の眼底検査の結果は、赤道部に小出血、左上方周辺に灰白色網膜混濁、散瞳不充分のため、よく見にくいが網膜静脈怒張迂曲しているので、網膜症を起しそうである旨のものであつて、散瞳が不充分で充分診断できないが、網膜症に移行する危険充分との診断であつた。そして、第二回目の二月一二日の診断では、血管の怒張迂曲、出血ありとして、当時の網膜症の治療方法たるステロイドホルモンの服用を命じている。
ロ、網膜症の初期変化は、網膜迂曲怒張であり、網膜に出血や滲出斑が出現し硝子体に混濁が出現するが、これまでの変化は可逆性であり治癒し、発症例の過半数は自然或るいはステロイドホルモン剤の投与により正常眼底に復帰し、又、他の相当部分も軽度の瘢痕を残すにとどまることを考えると、原告伸二の診断は、初期変化中であつたことが明らかであり、眼科診断時は早期発見であり、且つ、その処置たるステロイドホルモンの投与も、当時としては適切な処置であり、何等被告病院には眼科管理には瑕疵がなかつたことは明らかである。
(三)、(ステロイドホルモン投与について)
ステロイドホルモンの効果は医学上確認されてはいないが、従来の治療法として常道的に投与されてきた。しかし、ホルモン剤の投与は、人体のホルモン分泌のバラスを崩し、身体の成長を害する悪影響が甚しく、簡単に投与すべきでないことは医学上の定説であることを考えると、未熟児に関しては一層その投与につき慎重の考慮が必要とされざるをえない。本件においては、第一回の眼底検査は、散瞳しないので完全な検診が不可能であつたが、網膜症となる危険性があるとの診断を下したものの、ステロイドホルモン投与に関しては、その慎重を期し、第二回目の検診で、網膜症の初期変化を確認し網膜症と断定しても可なりと信じてその投与に踏み切つていることが明らかであり、何等ステロイドホルモン投与については被告病院には瑕疵はない。結果として、何等効果がなかつたことは事実であるが、このことは、ステロイド効果に疑問を持つ意見の裏書であつたに過ぎない。
(四)、(光凝固治療を目的とする天理病院への転医について)
1 光凝固法は、原告伸二の出生した昭和四四年一二月当時はまだ実験の時期であり、診断および手当として確立されたものでなく、発見者も確信の域に達しておらず、又、天理病院以外は全然実験もしていなかつた。かくの如く、当時としては光凝固法についての施行適期とその判定基準は不明確なものであり、まだ光凝固法の医療価値が確立されておらず、治療法として医学界の常例となつていなかつた以上、天理病院への転医については被告病院に何等瑕疵がない。
2、被告病院には、光凝固法の機械装置等はないので、当時唯一の研究職員およびその装置のある天理病院に紹介し、患児を送るより外に方法はなかつたが、これとても、原告伸二が二キログラム未満であり、しかも厳冬の飛騨であることを考えると、原告伸二を天理病院に運ぶことによる生命の危険はより大であつた。
3、このように、光凝固法の施行適期とその判定基準が不明確であることに原告伸二の生命の危険を合わせ考えると、被告病院には光凝固治療を目的とする天理病院への転医について何等瑕疵はないといわざるをえない。
(五)、(結語)
以上の次第であるから、当時の医学水準からすれば、生命を第一とする被告病院医師としては充分周到なる注意のもとに診療、手当をしたもので、被告病院にはいずれの方面からいつても原告ら主張の如き過失は些かもない。
(被告の主張に対する原告の反論)
一、(酸素投与について)
生死の問題が医師として中心の問題であるべきことはもとよりであるが、原告伸二は生下時仮死状態ではなくチアノーゼも六時間で消失している。被告病院としては急場を過ぎた後はあらゆる予測される疾病に注意して保育すべきものである。失明という結果は子にとつても親にとつても死にも値する苦しみであり、単に生命さえあればよいというものではない。眼と生命との間に優劣をつける如きは医の倫理ではなく、医の独善にすぎなく、それこそ人道無視といわざるをえない。担当医としては、酸素の調整を行い、眼底管理を徹底的に行うのが当然の義務というべきである。現に、本件の後に於いて被告病院で出生した生下時体重九七二グラムの女児が、天理病院へ移送され、光凝固法の施術で成功しており、その他にも被告病院で、原告伸二と余り変らぬ体重で出生した児が天理病院へ移送され光凝固法で成功した例が二、三例あることは、被告病院自身の最もよく知るところである。
二、(眼底検査について)
植村医師は「眼科医は未熟児出生後より、一、二週毎に反復して眼底検査を行ない、少くとも生後六ケ月までの管理を行うことが徹底すれば、本症による失明又は弱視の発生はなくなるか、又は著しく減少するであろう。」旨述べ、又、「生後より一週間は、体重が低いもの程眼底検査のため哺育器外に出すことは、むしろ、さけるべきであり、全身安定を待つて一〇日目ころより開始するのが無難である。それは検査そのものが侵襲となる恐れがあるからである。」旨述べていることから考えて、出生後三〇日以上を経過しなければ、完全な診断ができないということは全然ない。むしろ、それ程の日時を経過しなければ眼底検査をなしえないような未熟な医師を被告としては雇傭しておくべきではないのである。これは被告病院が今日全国的組織において、医療上果たしつつある役割と責任からいつても当然のことである。
三、(ステロイドホルモン投与について)
二月四日の眼底検査の結果、右眼赤道部に出血、左眼周辺網膜に灰白色混濁が認められたのだから、被告病院としては、当時の早期治療方法の常道として当然ステロイドホルモンの投与をなすべきであつた。発症と同時にステロイドホルモンを投与すべきことは当時から今日まで臨床医学の常道とみなければならないのであつて、S医師が二月四日のオーエンスⅡ期においてさえステロイドホルモンの投与を指示せず、二月一二日に至り漸く指示したことは前記誤診に基づくとはいえ医学の常道に著しくもとるものであり、ステロイドホルモンの早期投与による早期治療をしなかつた過失が原告伸二の網膜症のその後の著しい進行を招来したものといわざるをえない。
四、(光凝固法を目的とする天理病院への転医について)
(一)、光凝固法による手術成功例は既に雑誌、論文等で発表されており、全国的組織と機能をもつ被告は綜合病院である被告病院等に「養育医療」を行わせている以上、当然右治療法について未熟児担当医師をして研修せしむべきである。光凝固法の施術者たる永田医師は、その論文の中で「薬物療法に頼つて光凝固の適期を失うことは妥当な処置とはいえない。光凝固は現在本症の最も確実な治療法ということができる」旨断言している。従つて、被告は、まず第一に酸素の調整を適切に行い、網膜症にかかる以前の努力をすべきであつたが、かかってしまった以上、早期発見、早期治療をなすべく、又、適切な時機に転医せしめるべきであつた。患者が唯一つ救われるこの手術の存在を、最も適切な時機に原告に知らしめるべきことおよび患者側と話合いの上で、最善の方策を講ずべきことは被告病院としての当然の義務である。
(二)、未熟児の移送については、携帯用の哺育器があり、これを使用すれば、酸素吸入を切つた日令三七日(昭和四五年一月二八日)、又は鼻腔栄養を切つた日令五三日(同年二月一三日)、遅くとも哺育器の使用を離れた日令六四日(同月二四日)には天理への移送は可能であつた。被告は、厳冬の飛騨では移送につき生命の危険があつたというが、保温については自動車等を使用すれば解決される問題である。被告のかかる主張は自己の不注意により網膜症にかからせ、その発見が遅れた過失と漫然と薬物療法のみに頼つて天理への転医を遅らせた過失責任を他に転嫁しようとするものにほかならない。
五、(結語)
以上の次第であるから、被告病院には、第一に、原告伸二に対する全身管理の怠慢、酸素療法上の不注意、眼底検査の遅れ、それに伴う網膜症発見の手遅れ、誤診およびステロイドホルモン投与等による早期治療の手遅れ等管理上の過失があるといわざるをえず、更に、第二に、光凝固治療を目的とする転医の手遅れ(これは医師法二三条違背である。)という二重の過失が存在することは明らかである。
第三、証拠<略>
理由
第一(争いのない事実)
請求原因一の事実、同二、(一)の事実、哺育器内で酸素によつて乳児の後部水晶体の血管異常増殖の生ずる例のあること、その血管異常増殖が原因で失明の例があること、昭和四五年二月四日に眼底検査を初診したこと、その際血管が迂曲怒張しており右耳下方に小出血があつたこと、被告病院は原告達彦らに天理病院を紹介したことおよび天理病院において左眼に光凝固法をしたことは当事者間に争いがない。
第二原告らは、被告には原告伸二に対する看護、保育、治療に関する準委任契約もしくは請負契約上の債務不履行により、又は不法行為により、原告らがそれぞれ蒙つた損害を賠償すべき責任があると主張するので、まず、不法行為の点について以下検討する。
一<証拠>および弁論の全趣旨を綜合すると、以下の事実が認められる。
(一) (被告病院の規模等)
被告日本赤十字社は全国的なネットワークで病院を持ち、国民の診療に当つているものであり、その目的は人道主義に基づく赤十字の精神、理想を基調としておるが、同日赤病院には被告日本赤十字社直轄のものとそうでないものがあるところ、被告病院は本社直轄であり、原告伸二出生当時飛騨地方における綜合病院は被告病院が唯一のものであり、同病院は昭和三二年ころから未熟児養育を行ないはじめ、同四三年三月からは近代的設備を完備した未熟児センターを飛騨地方ではじめて発足させて新しい未熟児管理に着手した。
(二)、(原告伸二の失明に至つた経緯等)
1原告伸二は昭和四四年一二月二二日午前一時四八分ころ出生したが、全身チアノーゼがあり(但し、約六時間後に消失している。)、呼吸不整のため直ちに酸素と湿度と温度を与えることを目的とする哺育器に収容され、同日より同四五年二月二四日までの六五日間哺育器に収容され、収容と同時に後記の如き酸素投与が同年一月二八日まで三八日間に亘つてなされ、又、鼻腔栄養が収容日後二日後の一二月二四日から同四五年二月一二日まで五三日間なされた。哺育器収容後体重も未熟児の通例に従い生下時より減少したものの一月五日の一、〇三九グラムを境に順調に増加し眼を除いては特別に急激な悪化もなく順調な経過を辿り退院時まで成長していつた。出生後退院時までの原告伸二の担当小児科医は、原告伸二出生の一二月二二日から一月一五日までの二五日間はK・B医師(以下、単にB医師という。)、一月一六日から一月三一日までの一七日間はA・N医師(以下、単にN医師という。)。二月一日から三月二日までの三〇日間はS・F医師(以下、単にF医師という。)、三月三日から退院の三月一六日まではB医師であり、原告伸二保育期間中担当小児科医が三度短期間内に交替している。
なお、前記哺育器への酸素投与はその濃度が一日三回六時間毎に原告伸二の一般状態に応じチェックされたところ、各チェック時における酸素の投与量および濃度は以下の如くである。一二月二二日から一月九日の間は毎分1.5リットル(但し、一二月二四日の二回目のチェック時は毎分1.8リットルである。)であり、その間の各チエック時における酸素濃度の最高値は三二パーセント、最低値は二四パーセントである。一月一〇日から一月一九日の間は毎分1.2リットル(但し、一月一〇日の二回目のチェック時は毎分1.8リットル、一月一二日の一回目および二回目の各チェック時は各毎分1.5リットル、一月一九日の二回目および三回目の各チェック時一リットルである。)であり、その間の各チェック時における酸素濃度の最高値は三一パーセント、最低値は二六パーセントである。一月二〇日は一回目のチェック時は毎分0.8リットルから一リットル(酸素濃度二七パーセント)、二回目のチェック時は毎分一リットル(酸素濃度二六パーセント)、一月二一日から一月二八日(但し、最終日の二八日は二回目のチェック時を迎えた段階で酸素投与を打切つている。)の間は毎分0.5リットルであり、その間の各チェック時における酸素濃度の最高値は二七パーセント、最低値は二〇パーセントである(なお、二六日から最終日の二八日間の酸素濃度は二七日の二回目のチエック時において二六パーセントである以外は空気中の酸素濃度二二パーセントに近い二五パーセントに維持されている。)。
2原告桂子の出産後同女の実母山ノ内節子(以下、単に節子という。)は二、三日おきに原告伸二らを被告病院に見にいつていたが、出産後間もなくの見舞の際、担当小児科医および看護婦から原告伸二が余り小さいため生死については判らないと伝えられた。しかし、その際担当小児科医等から失明することがあるかもしれない等原告伸二の眼に関しては一切説明をうけていなかつたところ、原告達彦は冬休みの一月はじめ実家に帰つた際、知人の産婦人科の開業医である三島医師から未熟児で哺育器に入れていると眼に障害があることもあるので心配だなという話しをきき、自己の友人にも弱視の子供がいることを考え、帰宅後節子にその旨話しをし、一月七日担当小児科医B医師に会つて「未熟児は酸素のため目に障害があるのでしょうか。」と訊ねて貰つたところ、右担当小児科医は「お母さん決して心配ありませんよ。日本では目が悪くなることは稀にしかありません。」とのことであつたため、節子も原告達彦、同桂子も安心していた。
3前記の如く、担当小児科医がB医師からN医師へと変わり、更に、二月一日からF医師に引継がれたのであるが、F医師は二月一日高山に着き被告病院において引継をなし、翌二日に原告伸二のカルテを見て酸素投与後三八日間に一回も眼科医の眼底検査をうけていないことは合点がゆかないと考え(原告出生当時の未熟児の眼底検査時は一応出生後三〇日ころに受診するのがよいというのが小児科医の常識であつた。)、眼科受診の必要性を感じ依頼箋という書面に原告伸二の生下時体重、酸素投与期間を記入し眼科部長S医師に眼科受診を依頼した。なお、被告病院においては未熟児が出生し哺育器に収容された場合、眼科医の方から積極的に任意に未熟児の眼底検査をするということはなく、小児科医の依頼があつてはじめて未熟児の眼底を検査することになつている。かくして、原告伸二出生後四五日目の二月四日に眼科医の初診がなされ、眼底検査をなした結果、「右赤道部に小出血、左上方周辺に灰白色網膜混濁あり本日散瞳不充分のためよく見えにくいのですが毎週ケンサします。網膜静脈迂曲していますので網腹症起しそうです」との通知票がF医師に翌二月五日に回付され、散瞳不充分で充分診断できないが、網膜症に移行する危険充分であるとの診断であつた。右通知票を受領したF医師はその結果を読み、眼科受診してみたが失明しておらず、又自然寛解(自然治癒)の限界を超えていないことが判明し安堵し、眼科受診のいきさつと感想をB医師に対する連絡事項としてカルテに記入した。F医師は当該眼底検査を見てステロイドホルモンの投与を考えなかつた訳ではないが、眼底検査の結果が必らずしも明確なものでなく、S医師のもう一度診察する旨の記載があつたことと、同日原告伸二の肺の呼吸音が両側肺ともにプロー性ブライで大気泡音がきこえたことにより、かかる時は気管支炎の症状のため強い副作用を起こすステロイドホルモンの投与を延ばすことにした。
4その後、二月一二日第二回目の眼底検査がなされた結果、血管の怒張迂曲著明で網膜は灰白色に混濁(健康側との境界著明)、血管は両側とも赤道部辺りで血管形成が進展せず伸びないで怒張迂曲し健康側との境界まで健康側網膜の血管は太く迂曲し箒の先のように多数の血管が先を揃えており、一部小出血があるとの診断であり、S医師はステロイドホルモンの投与をF医師に依頼し、同日同医師はステロイドホルモンの投与を開始した。
5その後、ステロイドホルモンの投与が続き、その間以下の如く五回に亘つて眼底検査がなされたが、原告伸二の網膜症はステロイドホルモン投与の効果もあがらず悪化していつた。
(1) 二月一九日の検査結果は、右鼻側上方に小出血、網膜症になりつつあり悪化の傾向にある旨のものであり、当日は瞳孔小さいため翌日再検査するとのことであつた。
(2) 二月二〇日の検査結果は、両眼とも血管の迂曲蛇行著明で周辺まで血管が先達せず周辺網膜に灰白色が増殖し、上内方および下方網膜に出血が認められ、左は散瞳しないのでよくわからないとの旨のものであつた。
(3) 二月二七日の検査結果は、両後眼後極にY字形の水晶体混濁があり、両眼底は周辺の灰白色組織は相変らず認められるが大出血はない、瞳孔が散瞳しないので眼底検査困難との旨のものであつた。そして、このメモを書くころ、ステロイドホルモンの効果もあがらず、放つておいたらどうなるかわからない状態であつたため、S医師は原告伸二は失明するかもしれない旨F医師に話した。
(4) 三月五日の検査結果は、両眼とも周辺灰色の組織はやや瘢痕化したように思う、網膜血管の怒張迂曲、周辺の灰白色組織は今尚著明、特に左周辺内方には丸い網膜白色混濁斑あり、右散瞳しないため明日もう一度再検査する旨のものであつた。
(5) 三月六日の検査結果は、右は散瞳しませんが眼底の血管怒張は凄いから瘢化も相当なものと思われる、左眼底は周辺の網膜は灰白色でもり上り外上方では一部剥離があるとの旨のものであつた。
6その間、節子は時々原告伸二の様子を見にいつていたが、二月中旬ころ看護婦から原告伸二が眼の治療をうけていることをきいたが(その際どんな症状であるとか、網膜症であるとかの具体的説明はなかつた。なお、被告病院においては原告伸二出生以前に網腹症が生じた事例数例があつた。)、未熟児はどの子も多少目に障害があるから治療をするので心配はいらないとの説明をうけ、節子の知人も未熟児を出生し哺育器に入つており眼を悪くしたが徐々に良くなつたことをその知人からきいていたので、節子はさして心配をしていなかつた。その後、三月初旬節子は原告伸二について養育医療の申請に関して看護婦に会つた際、その看護婦が原告伸二の目が悪いというのをきき心配して、三月七日ころ担当小児科医B医師を尋ねたところ、同医師が「最近になつて体の方は大丈夫の状態になつたが、眼は後へ戻すことはできない。」旨答えたのに驚愕した節子は、直ちに眼科医にその事情を訊くべくS医師に面会を求めた。S医師は節子に対し「未熟児は殆ど目に障害があるが、この児もその内良くなると思いますが、他の未熟児と違つて重症なので困つている。」旨説明したので、原告達彦、同桂子にそれを伝えるとともに三人で話し合い、翌々日の九日再度節子がS医師に面会したところ、S医師は「困つたことだが重症だ。自分としては最善を尽したのだが。」との旨のことをいわれたので、節子が「何百万円金を使つてもよいから伸二を身体障害児にしては困る。」と強く訴えたところ、S医師は非常に驚いた様子で「天理市に未熟児網膜症の永田先生という世界的権威の先生がいるからそこへ紹介するからそこで手術をして治療をうけて下さい。それには時機があるから一日も早く治療をうけるように。」との旨いわれ、節子ははじめてその時原告伸二の症状は未熟児網膜症というものであることを知つた。S医師は直ちにその場で担当小児科医B医師に電話をし、原告伸二の状態をきき原告伸二を外に出しても大丈夫である旨を確認した上、原告伸二を天理病院に送ることを決定した。原告達彦は節子から原告伸二の天理病院への転医の必要性を知らされ直ちに被告病院にゆくよう連絡をうけたが、多忙のため直ちに被告病院に赴くことができず翌々日の一一日S医師に面会したところ、S医師は「おかあさんやおばあさんには女性だかむいわなかつたが、あんたはおとうさんだからいいますが可哀そうだけど失明しますよ。」とはじめて失明すると言渡され、重症かもしれないが失明ということなど想像もしていなかつた原告達彦は驚愕したが、一方手遅れかもしれないが天理病院へ転医すれば完治するかもしれないと希望をつないだ。
7天理病院への転医手続はS医師が全てしてくれたため、原告達彦は原告伸二を三月一六日被告病院から退院させ、直ちに原告桂子、節子とともに鉄道を利用し天理病院へ赴いた。原告達彦らは当日同病院に到着したが、直ちに診察をうけることができず翌一七日に来院して欲しいとのことで一六日は奈良に宿泊し、一七日眼科部長永田医師の診断をうけた。しかし、診断の結果、既に原告伸二の右眼は活動期症変も既にオーエンスⅣ期を過ぎオーエンスⅤ期の状態で水晶体の後部の線維増殖を起こしており瘢痕期に没入しており治療しても仕方ない状態で光凝固法の施すことのできない状態であつた。左眼はオーエンスⅢ期の晩期であり網膜の全周に太い血管から滲出が起こつており、剥離が起こつており光凝固法を施すには適期を過ぎ少し遅いと感じたが一応光凝固法を施したが、網膜症の進行を阻止しえず失明に至り、四月一四日天理病院を退院した。
(三)、(網膜症について)
1(網膜症の歴史的背景)
昭和一七年(一九四二年)テリーが夫熟児の水晶体後部に血管を伴う組織増殖を起こす疾患の存在を最初に報告したのが網膜症の眼科文献に現われた最初のものであり、同一九年(一九四四年)テリーはこれを水晶体後部線維増殖症と命名した(これを未熟児網膜症と呼んでいる。)。それ以来多くの研究者が網膜症の本態について研究したが、これが未熟児の酸素療法に関連の深い一種の網膜血管病であることが判明するまでは約一〇年を要し、その間欧米において多くの犠牲者を出した。昭和二六年(一九五一年)キャンベルがはじめて未熟児保育時の酸素の過剰投与にその病因を求め、それが多くの疫学的研究によつて確認され、キンゼイらの広範な統計的研究の結果、酸素供給の制限と眼科管理の徹底によつて明らかにその発生率が激減することが認められてから著しくその発生数を減じて今日に至り、欧米の眼科文献から網膜症に関する報告が殆ど姿を消してしまつたといつても過言ではなかつた。しかし、極く一部の研究者はその後もなお少数ながら網膜症の発生が依然として見られること、これが特に一、五〇〇グラム以下の低体重児の場合に重大な脅威となることを警告し続けた。日本においても植村医師が同三九年(一九六四年)以来繰返し網膜症の発生が決して稀なものでないことを強調していた。
そうするうち、未熟児室の設備近代化にともない小児科領域で未熟児の保育が著しく進歩して一、五〇〇グラム以下の低体重の生存率が向上するにつれ、従来安全限界とされていた濃度三〇〜四〇パーセント以下の酸素投与の場合でも、又、動脈血の酸素分圧PO2が100mmHg以内に保ちえたと確認された例、あるいは全く酸素を使用しなかつた場合でも網膜症を発生する例のあることが報告されはじめた。そして、又、一方低体重の未熟児で特に起こり易い特発性呼吸障害症候群が注目されるようになり、この場合その死亡を防ぐため特に高濃度の酸素使用が不可欠であることが強調されるようになり、その特発性呼吸障害症候群の患者の生存率が高まるにつれ、過剰酸素の問題も再登場し、かつての欧米で多くの犠牲者を出した時代とは異なる意味をもつて網膜症が姿を現わしてきた。
日本においては当時未だ未熟児の保育管理が普及していなかつたため、かつての欧米における網膜症発生の大波を被らずにすんだが、病院の未熟児室の設備近代化とともに前記植村医師らの具体的経験に基づく警告によつて小児科医、眼科医の殆どはそれまでの未熟児の高濃度酸素による保育に関係ある過去の疾患であるとの概念的知識から脱却して昭和四〇年ころから漸く網膜症に関する関心を高め、低体重未熟児の生存率の向上に平行し新たに解決を迫られている困難な問題として小児科医、眼科医の前に出現し、本件当時既に未熟児を取り扱う施設においては後記の如く眼科的管理は常例的となつていた。
2(発生原因)
網膜症の原因としては、過去において母体側か患児側の先天性あるいは環境因子の関与、未熟児に使用する水溶性ビタミン、鉄剤、粉乳、電解質、輸血などが関係するという説、ビタミンE欠乏説、ウィルス感染説、ホルモン欠乏説等が出されたが、本件当時最も重視されていたのは酸素投与との関係であり、酸素投与により未発達な未熟児の水晶体後部に血管の異常増殖が起きるとされ、酸素が網膜症の重要な因子であることは異論がなかつた。現在においてもこの点に異論はないが、前記の如く全く酸素を使用しなかつた場合にも網膜症が生じていることもあり、酸素以外の因子の存在が決定的に否定された訳ではなく、出生を境に起こる胎児の血液中のヘモグロビンの酸素飽和度の急激な上昇、胎児PO2値の新生児PO2値への変換、未熟網膜に対する光の影響、先天的原因等を網膜症の因子であると挙げる外国の学者もいる。
3(眼底検査等)
網膜症の早期発見のためには眼底検査が必要とされているが、この点に関しては、昭和四一年五月号「臨床眼科」二〇巻五号において植村医師ら二名は日本においては網膜症に対し、従来より欧米程関心を示さず、二、三の臨床的実験的報告はあるものの、具体的に網膜症の予防、早期発見、早期治療に対する積極的対策は講じられておらず、網膜症は眼科、小児科、歯科の境界領域の問題の一つであり、乳児失明の一因となり、且つ又、社会的教育的弱視の一因となるもので、その意義は重大であるにも拘らず、関係各科の連係の不良およびそれに対する関心の薄さは反省せねばならないと述べ、同医師勤務の国立小児病院における未熟児病棟の眼科的管理を症例を引用しながら論述し、網膜症について眼科管理の必要性を説いた。昭和四三年四月号「臨床眼科」二二巻四号において永田医師ら四名は、後記光凝固成功症例二例を挙げ発表し、その中で天理病院における眼科的管理の方法を紹介し網膜症の眼科的管理の必要性を説いている。植村医師は更に同年九月号「眼科」一〇巻九号および同年一〇月三〇日増刷発行(同四一年一月三〇日発行)「小児眼科トピックス」において、永田医師も更に同年同月号「眼科」一〇巻一〇号において同様眼科的管理の必要性を説いた。又、塚原勇医師(以下、単に塚原医師という。)ら四名らも眼科医による眼底の観察は依然として未熟児の管理の中で重要な部門の一つであると述べ、関西医大病院未熟児室に収容された一三六例の症例を挙げ眼科的管理の必要性を説いた。かかる如く、未熟児の眼底管理の必要性は従来各医師によつて指摘され強調されてきたものであり、原告伸二出生当時には既にその眼科検査は成人程簡単でなく困難な診断とはなされながらも小児科医の常識となつていた。
なお、眼底検査は通常ミドリン或はネオシネジンで充分散瞳した上、開瞼し、検眼するものであり、眼底周辺部まで充分精密な検査をする必要があるところ、その眼底検査時期に関しては、前記昭和四一年五月号「臨床眼科」二〇巻五号の中で植村医師は未熟児に関しては生後全身安定を待つて一〇日目ころより開始するのが無難であると、又、同医師は前記「小児眼科トピックス」の中で生後より一、二週毎に反復してなすべきと述べているが、眼底検査時は時代によつて相違し、未熟児の眼底検査がなされなかつた時期もあり、退院時にすれば足りるとの説、出生後三週間から四週間になすべきであるとの説等種々存在するが、前記の如く原告伸二出生の際は小児科医の間で矢張り見解の相違があつたが大体一応出生後三〇日ころに受診するのがよいとされていた。
眼底検査により網膜症の早期発見が可能であるが、オーエンスによると網膜症の臨床経過は、活動期(生後四〜五ケ月ころまで)、恢復期、瘢痕期(程度に応じて五度に分れる。)と三期に大別され、初期変化は常に未熟児の生後一ケ月の間にはじまり、六ケ月までには瘢痕期に移行するとされている。オーエンスはその内活動期を以下の如くⅠ期からⅤ期までに分類した。即ち、Ⅰ期(血管期)は網膜血管の迂曲怒張、網膜周辺部浮腫、血管新生等が見られ、Ⅱ期(網膜期)は硝子体混濁がはじまり、周辺網膜に限局性灰色隆起が現われ、出血が見られる時期で、Ⅲ期(初期増殖期)はこの限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が増殖性網膜炎の形で硝子体内へ進出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起こし、Ⅳ期(中等度増殖期)においてこの新生組織の増殖が中等度となり、この新生組織の増殖が高度となるとⅤ期(高度増殖期)になり、これは網膜症に最も活動的な時期で、網膜全剥離を起こしたり、時には眼内に大量の出血を生じ硝子体腔をみたすものもあるとされている。このオーエンスの分類に関しては日本においては松本和夫ら三名が昭和三九年二月号「臨床眼科」一八巻二号で「水晶体後方線維増殖症の治療に就て」と題する論文の中で詳細に紹介して以降、植村、永田両医師によつても紹介されるに至つた。そして、原告伸二出生当時植村、永田両医師らをはじめ日本においてはこのオーエンスの分類を採用していたといつて過言でない。
この活動期病変はⅠ期、Ⅱ期においては自然寛解の傾向が強いというのが原告伸二出生当時も現在も眼科界の通説であるところ、オーエンス何期までは自然寛解が可能であるかとの点に関して各研究者から網膜症を扱つた論文の中では症例に基づきその時期、自然寛解率等につき報告がなされ、時には自然寛解が難しい、あるいは望めないとされるⅢ期でも瘢痕を形成することなく完全治癒する可能性があると報告されているが、これらの点に関しては確たる基準がなかつたのが原告伸二出生当時の実情であり且つ現状でもある。
4(治療方法)
前記の如く未熟児の眼科管理の必要性が強調され、眼底検査により網膜症の前記オーエンスの分類による重軽度を早期に診断し網膜症を早期発見することが可能になつたが、その治療手段に関しては確実な治療方法はなく、原告伸二出生当時より従来医学界においては活動期症変が起こつた場合の網膜症に対する治療手段に関しては、ステロイドホルモン、ACTH、蛋白同化ホルモン、止血剤等の使用が有効であるとの報告がなされ薬物療法が試みられ、特に網膜症発症と同時に又はオーエンスⅠ期、Ⅱ期の早期にステロイドホルモンの使用が唯一の治療方法とされていたが、自然寛解が多いためにどの程度それが有効であるのか、その投与の時期および量を如何にするか、その副作用を如何に解するか、又他に有効な治療方法がないか、今後検討すべき問題であるとされており、原告伸二出生当時は比較的軽症例には自然寛解を待ち、又ステロイド療法により治療する可能性があるが、少数の重症例に関しては治療がなく、唯その瘢痕化を待つ他はなかつた。しかし、後記の如く永田医師ら四名より網膜症に対する一つの治療方法として光凝固治療の可能性が唱えられはじめた。更に、原告伸二出生の後であるが、昭和四七年三月号「臨床眼科」二六巻三号において山下由起子医師はオーエンスⅡ期に至り自然治癒の可能性が望めないと思われる重症例に対し冷凍手段を試み、光凝固術と同じかそれ以上と思われる効果が期待できる結果をえた旨報告し冷凍療法を紹介した。
(四) (光凝固法について)
1昭和四三年四月号「臨床眼科」二二巻四号において、永田医師ら四名により、はじめて光凝固法が網膜症の治療方法として有力なる治療手段となる可能性があると成功二症例を挙げながら詳細に発表報告された。それは、生下時体重一、四〇〇グラムおよび一、五〇〇グラムの未熟児二名をやむをえず酸素を使用して保育し、継続的な眼底検査を行う間に次第にオーエンスⅠ期よりⅡ期に進み、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が硝子体内へ進出しはじめて増殖性網膜炎の初期像をとつてきた時点、即ちⅢ期のはじまつた時点で、その網膜周辺部の限局性滲出性病変と新生血管に対して全麻下光凝固術を施行し(生下時体重一、四〇〇グラム児は昭和四二年三月二四日、同一、五〇〇グラム児は同年五月一一日各施行。)、頓挫的に病勢の停止することを経験した旨の報告であり、今後の方針として未熟眼底を呈する未熟児には定期的な眼底検査を行なつて網膜症の進行を監視し、オーエンスⅡ期に入ればまずステロイド療法を施行し、又、もしオーエンスⅢ期に移行してゆく症例があればその進行状況を確かめたうえで、網膜剥離を起こす前に周辺部の滲出性病巣を新生血管とともに光凝固で破壊することを行なうつもりであるとし、網膜症には自然寛解があり、光凝固施行の時期には問題があると思われるが充分な眼底検査による経過観察により適当な時期を選んで行なえば、従来無力であつた網膜症重例に対する有力な治療手段となる一つの可能性があると発表している。この研究成果発表当時、眼科界では光凝固法に対しては全然知識がなく、植村医師も光凝固法の施行適時、光凝固法による悪影響の有無等医学上の疑問点について質問しておるのが実情であつた。
2昭和四三年一〇月号「眼科」一〇巻一〇号において、永田医師は前同様成功二症例を挙げ光凝固法が網膜症に対する治療手数として決定的な意義を持つとは速断しないが、将来のその治療についての一つの可能性があることを述べ、光凝固療法を施行する意義、光凝固の時機、過剰侵襲等につき説明したうえ、小児科、産科、眼科の協力による未熟児管理内容の充実によつて網膜症発生率は今後更に低下すると考えるが、若しやむをえざる症例で重症網膜症が発生した時は更に慎重な態度で治療を行ない、必要に応じて光凝固による治療をも試みてゆくつもりであるとし網膜症に対し有効な治療法となる可能性を発表した。
3昭和四五年五月号「臨床眼科」二四巻五号において、永田医師ら二名は前記の如く進行性の重症未熟児網膜症二例で、全麻下で光凝固を施行しその進行をとどめえたことを報告したが、その二症例以外に成功の四症例を追加報告し、それらの当該症例におけるステロイドホルモンその他の薬物療法の無力さと、光凝固による劇的な進行停止と治療をまのあたり見て、網膜症は適切な適応と実施時期をあやまたずに光凝固を加えることにより殆ど確実に治癒しうるものであり、重症の瘢痕形成による失明や高度の弱視を未然に防止することができるとの確信を持つに至つた旨述べ、光凝固法施行時期についてはオーエンスⅢ期に突入して進行を止めない場合は光凝固を行なうのがよいと発表した。
4昭和四五年一一月号「臨床眼科」二四巻一一号において、永田医師は光凝固は現在網膜症の最も確実な治療法と述べ、更に、昭和四七年三月号「臨床眼科」二六巻三号において昭和四二年から昭和四六年七月までの合計二五症例を挙げその施行適期と判定上の基準について確信ある発表をなし、末尾を「今や、未熟児網膜症発生の実態はほぼ明らかとなり、これに対する治療法も理論的には完成したということができるので、今後この知識を如何に普及し、如何に全国的規模で実行することができるかという点に主たる努力が傾けられるべきではないかと考える次第である。」と結んでいる。
以上の認定に反する<証拠>は前掲各証拠に照したやすく信用できず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。
二そこで、前記認定事実を基礎として原告伸二の失明は原告ら主張の被告の過失に基づくものであるかについて判断する。
(一) 医師は職業そのものの性質上患者の生命身体に対する危険防止のため必要とされる最善の注意義務を要求され、このことは医師を雇傭して診察治療に当たらせる医療機関についても同様というべきところ、被告病院としては前記認定の如く、未熟児を哺育器に収容して酸素療法を施行すれば、当然網膜症の発生が予測できる立場にあつたのであるから、原告伸二を網膜症の被害から守るために、原告伸二の全身的管理を充分に行ない、酸素の使用に充分な注意を払い、周到な眼底管理をなし網膜症の早期発見と早期治療に最善の注意をなすべき高度の注意義務が課せられているものというべきである。
(二)、以下、被告病院の措置について検討する。
1(全身管理について)
原告らは、被告病院は原告伸二に対する全身管理をなすべきなのにそれを怠つたと主張するので検討するに、前記認定の如く、本件においては、原告伸二の保育期間中小児科医が三度短期間内に交替しているのであるが、かかる事実は、患者の症状を熟知したうえ一貫した診療をなすのが医師として理想であることに鑑みれば、一人の医師が通じて診察をなすのに比して必ずしも好ましいものとはいい難いことといわざるをえない。しかしながら、右のごとく短期間における医師の数次の交替の事実をもつて直ちに被告病院が原告伸二に対する全身管理を怠つたものと即断することはできない。けだし、本件においては、<証拠>および弁論の全趣旨を綜合すると、N医師は各引継ぎ時B、F両医師と直接会つて引継ぎをなしているものであり(なお、その際N医師はB医師から原告伸二に関しては呼吸が悪いから酸素をやつているときいている。)、F医師もB医師に対しカルテに連絡事項を記載して連絡をとつていること、N医師はB医師からの引継ぎの際、F医師はN医師からの引継ぎの際、それぞれ看護記録、カルテを見て引継いでいること、医師が引継ぎをなす時は看護記録、カルテを見て受持患者の症状を知ることが認められるものであり、以上の事情を綜合すれば、短期間内に三度担当小児科医が交替したことは本件のごとく未熟児の全身管理の面において理想的な状態ではないとはいいえても、右事実をもつて直ちに被告病院に原告伸二に対する全身管理上の過失があつたとすることはできないからである。
なお、<証拠>によればB医師担当の一二月二八日から一月四日までのカルテの記載が全くなされていないこと、B医師からN医師へ引継がれたころである一月一四日から一月一八日までのカルテの記載が全くなされていないこと、F医師からB医師へ引継がれた三月三日、四日両日ともカルテの記載がないこと、N、B両医師のカルテの記載は全体的に極めて簡単な記載であること、看護記録も一二月三〇日から一月二日まで、一月九日から一月一四日まで、その他(例・一月五日、六日、一六日、二七日、二月二日等)にも記録がない部分が多いことが認められ、右事実を、<証拠>により認められる全身管理、全身治療の徹底的実施が網膜症の予防および自然寛解をうるために重要なものであるとの事実ならびに原告伸二が出生時一、一二〇グラムの体重しかなかつた未熟児であることを考え合わせると、原告伸二の全身管理は特に慎重になされるべきであつたものであり、ことに、前記の如く短期間に三度担当小児科医が交替しているのであるから、かかる場合カルテは確実な引継ぎぎのために通常よりも一層詳細に記載されることが期待されていたものといわなければならず、右カルテの不記載の事実は一応これを問題としなければならない。けだし、カルテの不記載の事実は原告伸二の症状が異状がないと考えたから記載しなかつたものであるとは当該カルテの他の箇所の記載と比較する限り直ちに推定することができず、更に医師法第二四条によれば、医師は患者を診察したときは診療に関する事項を記載した診療録(カルテ)を作成し、これを五年間保存しなくてはならないところ、カルテの作成、保存を医師に義務づけたのは、医師の診療行為の適正を確保するとともに患者との関係で後日医師の診療をめぐつて生起するかもしれない問題(再診療、医療費請求、医療過誤による損害賠償請求等)の法的紛争についての重要な資料となるものでありカルテに記載がないことはかえつて診察をしなかつたことを推定せしめるものとすら一般的にはいうことができるからである。しかしながら、さらにひるがえつてみると<証拠>から認められる原告伸二出生以降の尿回数、便、器内(乾球、湿球)、酸素量、各種看護記録、処置処方、栄養等に関する各記載、および<証拠>により認められる原告出生当時看護記録は全国的に使用されていなかつたところ、被告病院においては使用した方が好ましいということでそれを使用していた事実、それらに加うるにその看護記録の内容をも合わせ考えると、右カルテ上、不記載日以外の分については充分な処置がなされているものということができるから、右不記載日についても同様の処置がなされていたものとみることも可能であり結局、直ちに当該不記載の事実から当該各期日において被告病院が原告伸二に対し充分な処置をなさず、原告伸二に対する全身管理を怠つたものとは推定することはできないこととなる。
かかる如く、原告伸二に対するカルテの記載に関しては被告病院に問題とすべき点が存在しないではないが、直ちにそれらの点から原告伸二に対する全身管理について被告病院に過失が存在するとまでは認めることができない。
2(酸素投与について)
原告らは、被告病院には酸素を機械的に且つ三八日間もの長期に亘り投与した過失があると主張するので検討するに、原告伸二は前記認定の如くその生下時体重一、一二〇グラムであり、それは最低度の未熟児の範疇に入るものであるところから、出生当時より被告病院はその生命を維持することに全力を傾けていたことは前記認定経過に照らして明らかである。なお、原告伸二の生命については、出生当時より相当強度の危険性が存在していたことは節子が被告病院に見舞にいつた際小児科医及び看護婦から生死については判らないといわれたことからも窺知うるところである。ところで、酸素投与が網膜症の要因の一つであり酸素投与の制限によりその発生率の減少があることは明らかであるが、他方酸素投与の制限によつて未熟児の特発性呼吸障害症による死亡率の増加、脳性小児麻卑の発生の危険性等が考えられるものであるから、未熟児に対する酸素投与は、網膜症の危険性と生命の維持との比重性に関することがらとして極めて深刻な問題をはらむものであるが、当時原告伸二の生下時体重が一、一二〇グラムであつたことを考えると、医師としては当然まず第一に生命維持の立場からその量、濃度、期間等について配意の上、酸素を投与せざるをえなかつたといわざるをえない。
そこで、具体的に原告伸二に対する酸素量、酸素濃度およびその期間について検討するに、酸素の投与量を概括的に見れば確かに毎分1.5リットルから1.2リットルへ、1.2リットルから0.5リットルへと酸素の漸減を機械的になしたといえなくもなく、<証拠>によれば一月六日、七日の呼吸数の多い時でも前後の日々のその投与量1.5リットルと同量であることが認められるが、一方<証拠>を綜合すれば各担当小児科医は原告伸二の呼吸不整、皮膚の色、息苦しい状態を示す肋骨間が呼吸する時逆にへつこむ症状等原告伸二の一般状態を基準として酸素投与量を各決定していることが認められるものであり、又、当該漸減事実それ自体からも酸素投与量は原告伸二の一般状態を基準にしてなされたことが推定されうるものであり、更に、<証拠>および弁論の全趣旨を綜合すると医学界の常識として酸素濃度は呼吸困難を起こす特発性呼吸障害症候群の時は別として一般に酸素濃度は四〇パーセント以上は投与しないことが認められるところ、<証拠>から認められる如くB医師は原告伸二出生当時温度三三度、湿度九〇パーセント、酸素三〇パーセントとの治療方針の基準を出しているが、<証拠>によれば当該治療方針は医学界の一応の基準とされているものでありその基準に誤りはなく、前記認定の如く原告伸二に対する酸素濃度はその投与期間中最高値は三二パーセントであり(なお、酸素投与については未熟児の生下時体重、その生命力等その他その他種々の条件が関係するために、他の症例は直ちにそれ自体から酸素投与の資料とは必らずしもなりうるとは限らないと考えられるものの、<証拠>によれば生下時体重一、五〇〇グラム前後児にも濃度六〇パーセントの酸素を投与した例、一、五〇〇グラム以下児にも濃度五〇パーセントの酸素を投与した例も認められる。又、その投与量に関しては<証拠>によれば生下時体重一、一〇〇グラム児に対し二リットルから三リットルを投与した例、生下時体重一、九〇〇グラム児に対し一リットルから二リットルを投与した例も認められる。)、しかも三〇パーセントを越える日々があるのは弁論の全趣旨によれば高濃度酸素が必要とされることが認められる酸素投与期間中の前半部分に集中し、一月一〇日以降は三〇パーセントを越えるチエック時は二回しか存在しないものであり、且つ酸素投与を中止する前の二六日ないし二八日の間の酸素濃度は二七日の二回目のチエック時が二六パーセントであるだけで、他のチエック時は全て空気中濃度二二パーセントに近い二五パーセントに維持されているものであり、かかる事情を綜合すると被告病院において漫然と酸素を投与したとは認められず、更に投与期間について考えても、その酸素投与打切りに関しては<証拠>からも明らかの如く可及的に早く打切るべく原告伸二の症状にあわせて打切つていることが認められ、又、前記認定の如く原告伸二は未熟児としては最も低度の範疇に属する生下時体重一、一二〇グラムの児でしかも呼吸不整の続く未熟児であることを考えると、当該三八日間の投与はその生命維持の立場から原告伸二に関する限り長期であつたといいうるものではない。
以上の次第であるから、原告伸二に対する酸素投与期間中、体重は順次増加し生命の維持に役立つたことは明らかであり、特にその生下時体重が一、一二〇グラムであることを考えると、原告伸二に対しなされた当該酸素量、投与期間は必らずしも不当なものではなく、被告病院が漫然と酸素投与をしたのではないことは明らかであり、本件酸素投与については何等被告病院に瑕疵は存在しない。
3(眼底検査について)
原告らは、被告病院は原告伸二に対する眼底検査を生後四四日間も怠り日令四五日目に漸く実施し網膜症の予防と早期発見をなしえず、更に初診時において原告伸二の眼底の症状はオーエンスⅡ期であるのにオーエンスⅠ期と誤診した点でそれぞれ過失が被告病院に存在すると主張するので検討する。
(1)、(眼底検査(網膜症発見)の手遅れについて)
前記認定の如く網膜症の早期発見は、早期治療のための前提であり、未熟児の限底検査は未熟児を失明から守るためなさなくてはならぬものであるところ、その眼底検査をなすべき時期に関しては<証拠>によれば植村医師は生後一〇日目に、<証拠>および弁論の全趣旨を綜合すれば、永田医師は生後約三週間目に、塚原医師は生後約一週間目にそれぞれ未熟児の眼底検査をなしていることが認められるところであるが、原告伸二出生当時の眼底検査をなすべき時期については前記認定の如く大体一応出生後三〇日ころに受診するのが医学界の常識であつたものであるから、出生後三〇日目ころに該る一月二一日ころに未熟児の担当小児科医としては眼科受診をさせるべきであつたと考えるところ、原告伸二の眼底検査は出生後四五日目の二月四日になされているものであるから、担当小児科医F医師の眼科受診の依頼は約二週間程遅れたといつてよく、なお、<証拠>によれば原告伸二の呼吸状態からいつて眼底検査をうけさせるのは好ましくないと考えたとのことであるが、<証拠>を検討すると、原告伸二出生後三〇日目に該る一月二一日の前日一月二〇日の第三回目のチエック時からその哺育器への酸素投与量を0.5リットルに下げ、その濃度も一月二一日の第二回目のチエック時には空気中酸素濃度二二パーセーセントに近い二五パーセントになつておるものであり、その後の酸素打切りに至るまでの投与量は0.5リットルと変化せず、酸素濃度も最高値で二七パーセント最低値で二三パーセントと大きな変化を示さず、カルテの記載によるも一月二二日、二三日とも原告伸二の状態は「良好」と記載されており、これらの事実を綜合すると原告伸二の状態は一応落ち着いてきたものと考えてよいと推定できるから、原告伸二の眼底検査はその一般状態からいつても一月二一日ころ可能であつたと考える。
更に、<証拠>によれば原告伸二の眼底検査の必要性には気付いていたことは認められるところであるが、<証拠>からはN医師は後任の担当小児科医F医師に対し眼底検査依頼の必要性について連絡をなしていないものであり、前記認定の如くF医師において酸素投与三八日間で一回も眼科受診をしていないのはおかしいと驚き眼科受診を依頼したものであり、二月四日の当該眼底検査所見は<証拠>を綜合すると、二月四日よりも約二〜三週間前に出現しはじめた筈であり(約二週間前とするとN医師が酸素投与量を0.5リットルに下げた翌日の一月二一日ころとなる。)、又生後一ケ月位(これも大体一月二一日ころとなる。)に出現することが認められることを合わせ考えると、本件眼底検査の時期は網膜症の早期発見を指標し生後三〇日ころとする当時の医学界の常識からすれば遅きに失したものといわざるをえない。
かかる如く本件眼底検査時期が遅れた要因の一つは担当小児科医N医師の眼科受診依頼の懈怠および後任のF医師の同依頼が遅れたことであるが、他にもその要因を考えるところ、前記認定の如く被告病院は全国的規模を誇り国民の診療に当たつている被告日本赤十字社直轄の総合病院であり、且つ、特に未熟児センターを有するものであるから、被告病院としてはより高度な医療知識および医療技術と、これに伴うより高度の注意義務が要求され、本来未熟児の全体的有機的管理のために、産科、小児科、眼科の協力体制を確立して、自動的に眼科医が未熟児の眼底検査を可及的早期になしうる体制をとるべきであるのに、被告病院においてはかかる体制をとらず、前記認定の如く当該三者間の協力体制は不完全であり、実体は小児科医の判断に基づき小児科医が眼科へ依頼箋を提出してはじめて眼底検査がなされているという体制をとつているとの点にも本件眼底検査時期の遅れた大きな要因があるものであり、本来未熟児の生命と健康を管理すべく未熟児センターを設置したのなら、未熟児の有する医学上の諸問題を詳細に検討しそれに如何に対処してゆくべきであるかについてとるべき方針を未熟児を取扱う産科、小児科、眼科が当然協議検討しその英知を結集し万全の体制をとり可及的最大限にその未熟児に惹起するかもしれない諸々の危険性に備えるべきものであり、更に考えるに、そもそも総合病院の存在理由は各科が有機的に連係を保ち、共助することにより単科では容易に究明しえない原因等を明らかにし適切な治療を行う点にあり、それ故にこそ患者も総合病院を信頼し診察治療をうけるものであり、かかる体制の被告病院における不備も又本件眼底検査の時期を遅らせ、網膜症の発見を最小限でも前記の如く約二週間遅らせる要因をつくつたものといいうる。
(2) (誤診について)
前記認定の如くF医師の眼底検査の依頼箋を受理したS医師は二月四日原告伸二の眼底を検査したものであるが、その所見は右眼は赤道部に小出血、左眼は上方周辺に灰白色の網膜の混濁があるとの診断であるところ、当該所見を前記認定のオーエンスの分類にあてはめるに、その症状からすれば両眼とも既に二月四日の時点でオーエンスⅡ期に入つていることは明らかであり、<証拠>によれば、当該二月四日の原告伸二の症状はオーエンスⅠ期とⅡ期の中間とも、Ⅱ期の終りとも推定され、最初から出血があることは非常に稀であることが認められるものであり、当該通知票<証拠>においてその末尾に「……網膜症起しそうです」と記載し未だ当時オーエンス初期(Ⅰ期のはじめ)の如き診断を下しているのは明らかに誤診といわざるをえない。
この点に関し<証拠>、その当時はオーエンス初期と判断したが、今の知識で考えればオーエンスⅡ期の終りである旨述べ、当時は網膜症、オーエンスの分類等に関する文献も乏しく荒つぽいオーエンスの論文しかなく、又、オーエンスの分類は誤りだらけであり、オーエンスの分類と永田医師の分類とは違いがある旨述べているのであるが、前記認定の如く永田医師の分類とオーエンスの分類との間に相違を見出すことはできず、我が国の眼科界においては原告伸二出生当時オーエンスの分類は既に一般に採用されていたといつてよく、しかも原告伸二出生当時には前記認定の如く昭和三九年二月号「臨床眼科」一八巻二号において松本和夫ら三名が、昭和四〇年六月号「小児科」六巻六号、昭和四一年一月号「小児眼科トピックス」において植村医師が、昭和四三年一〇月号「眼科」一〇巻一〇号において永田医師がそれぞれオーエンスの分類を繰り返し紹介しておるのであり、この点に関する<証拠>はたやすく採用することはできない。
考えるに、未熟児の生命と健康を管理すべく設置された近代的設備を完備する未熟児センターの眼科管理を担当する医師としては、本来高水準の医療を行なうことを指標するものであることからすると、より高度な医学知識、医学技術の修得が要求されるものであるから、原告伸二出生当時既に前記の如く種々の専門誌によつて一般に紹介されていたオーエンスの分類に関しては、正しく把握理解し、未熟児の眼底検査に習熟するよう対処するのが、未熟児センターの眼科管理を担当する医師としては当然なすべきことであり、オーエンスⅡ期の症状をオーエンスⅠ期のはじめと見誤るが如きことがあつてはならない。かくの如く、S医師の当該誤診は基本的ミスとして非難を免がれないと考える。確かに前記認定の如く、未熟児の眼底検査には困難が伴うものであろうが、そして又、日進月歩する医学の現状を正確に把握することはその学問の困難性からいつても決して容易なことではないことは想像に難くないが、医師に対する一般の信頼をより不動なものとするためには矢張り医師自身の研鑽が問われるものであるといつても過言ではない。
(3) 以上の如く、産科、小児科、眼科の協力体制の不備を背景としたN医師およびF医師の眼科受診依頼の懈怠および手遅れによる早期発見の遅れとS医師の二月四日の段階での見立て違いによる早期治療の遅れが相重なつて、原告伸二の早期治療を困難にし網膜症を悪化に至らせる原因となつたといえる。
4(ステロイドホルモンの投与について)
原告らは被告病院は原告伸二の網膜症発見後も直ちにステロイドホルモンを投与せず、九日間も放置して早期治療に努めなかつた点で過失があると主張するので検討するに、前記の如く、二月四日の眼底検査において、S医師は原告伸二の症状をオーエンス初期と判断し、F医師に対し「網膜症起こしそうです」とのみ通知し、ステロイドホルモンの投与を指示しなかつたものであるところ、F医師においても原告伸二の一般状態が必らずしも良好でなかつたことからS医師の指示がないことも手伝い、ステロイドホルモンを投与しなかつたものであるが、原告伸二出生当時網膜症に対する治療方法としては、網膜症発症と同時に又はオーエンスⅠ期、Ⅱ期の早期にステロイドホルモンの投与をなすのが医学界の常道であつたことは前記認定の如くであることを考えると、S医師が二月四日のオーエンスⅡ期の症状においてさえステロイドホルモンの投与を指示せず、<証人>によるとその当該眼底検査所見からすればオーエンスⅡ期からⅢ期へ移行する時期にかかつていたという二月一二日に至り、漸くその投与を指示したことは、前記誤診に基因するものであり、矢張りその投与の遅滞を非難せられるべきものと考える。なお、未熟児担当眼科医としては網膜症の発症を認めたら爾後の経過を詳細に診察すべく可及的に診察の間隔を短縮し、出来れば毎日でも眼底検査をし当該症状に応じた処置をとるべきであると考えるところ、<証拠>によればS医師はその初診時において今まで経験したことがない程血管の迂曲怒張著明と自ら驚いているのであり、又、その初診は<証拠>によれば散瞳不充分のためよく見えにくかつたのであるから、二月一二日より前に第二回眼底検査をなすべきが相当であつたものであり、当該二月一二日の眼底検査は初診時から一週間を経過しておりその間隔があきすぎているきらいがなくはなく、当該間隔が短縮化されていれば前記誤診を早期に発見でき又ステロイドホルモン投与時期も早まつたであろうことが推定できるものである。ステロイドホルモン投与の効果については前記認定の如く争いが存することは明らかであるものの、医学界の常道として従来ステロイドホルモンの投与がなされておる背景にはそれが何等の効果もないことが証明されず、かえつて網膜症に対し何等かの効果があることが臨床的に認められているという事情によるものと考えるのが相当であるから、本件ステロイドホルモンの投与の遅滞も原告伸二の網膜症の悪化を招来する一因になつたといいえよう。
5(天理病院への転医について)
原告らは、医師は医師法第二三条により療養方法等指導義務を負つているにも拘らず、かかる指導を全くなさず当時既に成果の発表されていた光凝固法の存在を原告達彦らに知らせ、その手術をうけしめるべく最も適切な時期に天理病院へ原告伸二を転医せしめ光凝固法による手術をうけしめることを怠つた過失があると主張するので検討する。
(1) (医師法第二三条違背の点について)
医師法第二三条によると、医師は診療をした時は、本人又はその保護者に対し、療養の方法その他保健の向上に必要な事項の指導をしなければならず、又、被告病院が保険医療機関であることは弁論の全趣旨から明らかであるところ、保険医療機関及び保険医療養担当規則第一一条によれば、保険医療機関は患者の収容に関しては、その病状に応じて適切に行い、療養上必要な事項について適切な注意および指導を行わなければならないとされている。
そこで、被告病院について検討するに、前記認定の如く被告病院は原告達彦、同桂子らに対し、原告伸二保育に当り、当初生命の危険性については知らせたが、網膜症については、一月七日に心配してその危険性を尋ねた節子に対しても安心してよい旨答えた丈で、哺育器収容直後もその後も担当小児科医、眼科医ともいずれも積極的にその発症の危険についてはもとより、その発症事実についてすら知らせず、左右両眼の病状の進行具合、治療経過、治療の見とおし、治療方法等何一つ知らせ説明することはなかつたものであり、現状は三月七日に原告伸二の目の悪いことを耳にし心配した節子がB医師に面会をし尋ねたところ、同医師から原告伸二の眼は元へ戻らない旨いい渡され、直ちにS医師に面会を求めたのに応じた同医師は眼は重症である旨述べた丈であり、九日に節子が面会を求め、何百万円金を使つてもよいから原告伸二を障害児にしないで欲しい旨訴えたのに応えて、はじめて網膜症という言葉を使い光凝固法という治療方法が存在する旨説明していることは前記認定の如くである。
なお、前記認定の如く二月一二日からステロイドホルモンの投与が開始されたが、その効果は現われず網膜症は進行し、S医師においてはその悪化の傾向を既に二月一九日の眼底検査で認めており、更に、二月二七日の眼底検査結果を通知票に記載するころには、ステロイドホルモンの効果もなく、ほつておいたらどうなるかわからず重症であるため眼がつぶれるかもしれないとB医師に話しているのである。とするなら、二月一九日の段階からS医師には既にそのステロイドホルモンの効果がないこと、自然寛解も困難であること、そのまま進行すれば失明するかもしれない危険状態に陥ちいつてしまうかもしれないことを認識していた筈であり、又認識しえた筈であり、二月二七日の段階ではその思いを一層強め確信するに至つた筈である。
ところで、<証拠>によれば、S医師は網膜症に対しは深い関心を寄せていたところ原告伸二出生当時既に永田医師が前記認定の如く昭和四二年三月と五月に光凝固治療を実施して成功し、光凝固法は実施時期さえ誤らなければ有力な治療手段となりうること、その適期とはオーエンスⅢ期のはじまりであること等につき研究発表した昭和四二年一〇月の第二一回臨眼講演にも出席しその講演をきいており、且つその講演結果を発表した前記認定の昭和四三年四月号「臨床眼科」二二巻四号にも目を通していることが認められる。更に、<証拠>を綜合すれば、永田医師は昭和四四年一〇月岐阜市において開催された第二三回臨眼講演において「未熟児網膜症の光凝固による治療第二報―四症例の追加ならびに光凝固適用時期の重要性についての考察―」と題する講演をしたものであるが、このときは学界開催の当番県の眼科医として所用のため遅れて会場にかけ込み永田医師の四症例追加の講演はききそびれたことが認められるものであるが、弁論の全趣旨によれば学会出席者には必らずその場で講演抄録が渡されるものであることが認められるから、右事実からすればS医師もその講演抄録「第二三回日本臨床眼科学会、会次第・講演抄録」(<証拠>)に目を通したことが推定しうるので、永田医師が光凝固治療第二報として、四症例を紹介し三症例に完全に成功し、他院から送付の一例は時期を失して無効に終つたこと(但し、弁論の全趣旨によると当該講演を発表したと認められる<証拠>―昭和四五年五月号「臨床眼科」二四巻五号―によるとここで無効とは完全な失敗ということでなく、光凝固を施行した右眼については一応視力も保たれている。)および光凝固適用時期の重要性について重ねて強調し、これによつて光凝固法が今や網膜症に対する確実な治療法となつた旨の報告がなされておることを充分に知りえた筈である。かかる種々の事情を考えると、S医師は原告伸二を扱つていた当時には既に光凝固治療法の有効性と適期の重要性、その適期とはオーエンスⅢ期のはじまりであることについて充分に知りうる状況にあつたものであり、現にそれを知つていたものである。そして、又、かかる光凝固法に対する知識は、未熟児の生命と健康を管理すべき未熟児センターの眼科管理に当る眼科医としては前記の如き当該研究発表の過程を辿ると、当時当然要求される医学知識であり、決して最高水準のそれであつたとはいい難い。
従つて、S医師としては悪化の傾向を認めた二月一九日ころには、或は遅くとも、失明するかもしれないとB医師に話し自然寛解が絶望となつた二月二七日ころには、原告伸二の保護者たる原告達彦、同桂子らに対し、自ら積極的に原告伸二の網膜症発症の事実、進行状況、治療経過、今後の見とおし、治療方法等につき(即ち、ステロイドホルモンの効果が現われないこと、自然寛解も望めそうもないこと、右眼の方が早く進行していること、このままにしておいたら両取とも失明に至る危険性があること、残された有力な治療方法として光凝固法があること、天理病院の永田医師がその権威者で治療の時期さえ失わなければその成功する可能性が極めて強いこと、現に治療成功例も報告されていること、天理病院への具体的な移送方法等)、担当眼科医として自ら認識し、知識として有する一切の資料を披瀝説明して、療養方法等の指導をなすべき義務があつたものであり、これは患者の生命健康を管理すべき担当医師として当然なすべき善管注意義務の一つというべきである。<証拠>によればS医師は原告伸二初診の段階で今まで経験したことがない程血管の迂曲、怒張著明と自ら驚嘆していることを考えると、原告伸二の網膜症が極めて危険な状態に陥ちいることを予見しうる状態にあつたものであるから、最悪の事態を回避するためにもその説明指導には最善の注意をなすべきであつたと考える、S医師においてかかる如き説明指導相談を全くなさなかつたことは医師法第二三条に違背する所為で指導上の過失といわざるをえず、かかる所為が原告達彦、同桂子らをして原告伸二に対し有効な光凝固治療をうけしめるべき適期を失わせひいては失明するに至らせたものと考える。
なお、医師法第二三条は、医師が患者に対し診断した当面の症状に対して適切な指導をなすべき旨命じた規定であり、その療養方法等の指導は医師が診断した当面の症状と相当に関連するものであると解せられるところ、前記具体的指導内容はいずれも原告伸二の網膜症と相当に関連するものであつたことが明らかである。
(2) (光凝固治療を目的とする転医の遅れについて)
イ、医師はその業務の性質上その診療について疑義があるときは、患者に対する治療の適正を期しうる他の病院に治療の協力を求めるべく患者を転医させる等して診療について適切な措置を講じ最悪の事態を回避するために最善の注意をなすべきであると考えるところ、前記の如く原告伸二出生当時既に永田医師は専門誌、学会等で光凝固法で網膜症を治癒せしめたこと、網膜症に対する光凝固治療の有効性、確実性、その適期の重要性、その適期がオーエンスⅢ期のはじまりであること等を発表しており、S医師においてはそれらを充分知りうる状況にあつたものであり且つ同医師はそれらを読み聞き知つていたものであることを考えると、S医師としては、原告伸二の眼底検査に当つては症状の進行状況に充分留意して、ステロイドホルモンの効果と見合わせながら、いやしくも自然寛解が困難になり、遅くとも絶望視しうる状態になればこれに対処するため機を失せず直ちに適期に光凝固治療をうけさせるべく、永田医師に対し、原告伸二の眼底所見を説明して、光凝固治療の効果を確かめたり、原告伸二の場合に光凝固を施行する適期、特に何時ころまでに施行しなければ手遅れになるかに関し照会する等し、又、担当小児科医とも緊密な連絡をとり、光凝固治療に関する知識を提供し、原告伸二の一般状態を確認して、天理病院への移送方法につき積極的に打合せをする等最悪の事態たる失明という結果を回避すべき義務があつたと考える。しかも、光凝固治療に関し最も重要なその施行時期については電話等で永田医師に照会することによつて容易に且つ確実にこれを予見することが可能であつたといえる。
してみると、S医師においては、前記認定の如く、二月一九日の眼底検査においてステロイドホルモンの効果も認められず網膜症の悪化の傾向を認めており、二月二七日の眼底検査においてはなおもステロイドホルモンの効果は認められず失明するかもしれないと認識しており、とすると、二月一九日の段階で自然寛解の困難性に気付きえた筈であり、現に二月二九日の段階では既に自然寛解が絶望であることを認識しているのであるから、二月一九日ころ遅くとも二月二七日の段階で光凝固治療をうけさせるべく天理病院へ、移送すべきであつたと考える。<証拠>によれば、S医師は小児科医とその検討もなさず、自らの判断で原告伸二の状態は移送に耐えられないものと判断し、当該時点において移送に踏み切らなかつたものであり、かかる所為は矢張り前記回避義務違反といわざるをえない。前記の如き天理病院での光凝固施行に関する諸経過、状況等を考えれば、当該各時点において天理病院へ転医し光凝固治療の施行をうけたならその成功の可能性は極めて高かつたであろうことが推定でき、<証拠>によれば、原告伸二の場合オーエンスⅢ期へ移行した二月一二日ころが光凝固治療の適期であつたが、二月一二日から三週間位の間(三月五日ころまで)ならば、原告伸二は完全とまではゆかないまでも、多少の後遺症が残る程度には治療可能であつたのであり、少なくとも進行の遅れていた左限だけでも助かる見込みは充分あつたものであることが認められる。もし遅くとも二月二七日ころに移送しておれば、多少の後遺症が残る程度には治療可能であり、少なくとも進行の遅れていた左眼だけでも助かる見込みは充分あつたと考えられるから、かかる転医の遅れも又原告伸二失明の原因をなしているといえる。
なお、<証拠>によれば、S医師は天理病院への手紙の中でステロイドホルモンの効果を期待し時を過ごしてしまい心配しておる旨記載しているのであるが、ステロイドホルモンは二月一二日から投与されたところ、その効果は出現せず悪化の傾向を辿つたのであるから、ステロイドホルモンの効果については必らずしも完全に解明されていない状況であつたことを考えると、その投用にのみ期待をかけすぎたのではないかと考えられなくもなく、又、前記の如く眼底検査期間の間隔を短縮することも又自然寛解の時期を判断する上で重要であつたのであるから、その点の考慮も充分なすべきであつたと考える。
ロ、なお、この点につき被告は原告出生当時は未だ光凝固法は医学界の常例となつておらず実験中であつたから、被告には過失がないと主張するので検討する。
考えるに、前記認定の如く、永田医師は昭和四二年一〇月第二一回臨眼講演において昭和四二年三月と五月に光凝固治療を実施し成功した旨講演し、同旨を昭和四三年四月号「臨床眼科」二二巻四号に発表し、更に、同年一〇月号「眼科」一〇巻一〇号においても同旨を発表し、光凝固施行の意義、光凝固の時期、過剰侵襲等につき説明し光凝固の有効性を述べ、更に昭和四四年一〇月第二三回臨眼講演において四症例追加の講演をなしその中で光凝固が殆ど確実性を有することを述べておるものであり、第二三回臨眼講演の永田医師の講演はS医師においては聴取してはいないが、その内容の概括を記載した抄録はS医師にも渡されていることが推定させるものであること等種々綜合すると、原告伸二出生当時光凝固法の存在に対しては眼科界一般は知識を有していたといつてよく、又、天理病院においては当時光凝固法は最早実験段階を脱却し治療法として確実性を有するに至つていたといつてよく、その旨S医師においても認識していた筈である。
かかる如く、天理病院においては既に光凝固法は網膜症に対する確実な治療法とされ施行されていたことは認められるものの、原告伸二出生当時その施行が医学界の常例となつていなかつたことは前記認定の如くであるので、その点につき考えるに、医師としては患者に対する治療もむなしく唯悪化を待つしかないという状況に直面した際、その最悪な状態を回避すべき治療手段が仮にその施行が医学界の常例ではないとしても他において施行されしかもその有効性が認められているとしたなら、当該治療手段をうけしめるべく適正な手続をとるのが医師としての最善の注意義務と考える。当該治療手段が医学界の常例でないからといつて唯その悪化のみを黙認するが如きは決して許されるべきではない。原告伸二はステロイドホルモン投与の効果もなく悪化の一途を辿り二月二七日には自然寛解が絶望となつたものであるから、遅くともその段階で光凝固法施行のために転医させるべきであつたのであり、この段階でもし原告達彦、同桂子らが光凝固法の存在を知らされたら親として当然その施行を強く希望し転医を要請したであろうことは、本件において三月一六日転医していることから明らかであり、このままでは絶望であると言渡され、他に治療手段が存在すると知らされたら仮に当該治療手段が極めて稀有の確率さえ存在しないといわれたとしてもその治療手段をうけることを望むであろうことは極めて明白であり、そのままで成行きにまかせ悪化を凝視する親がいるであろうか。医師としてはそれが医学界の常例でないからといつて当該治療手段施行の可能性を封ずるが如きことは許されるものではなく、残された最後の治療手段をうけしめるべく努力すべきであり本件の場合には前記の如くそれが有効な確実性を有するものであり適期に転医していれば原告伸二は失明を免がれえたことを考えるとなお更である。してみると、当時光凝固法が未だ医学界での常例ではないからその故に過失がないとの被告の主張はその理由がないといわざるをえない。前記の如く光凝固法の存在等に対しては学会での講演専門誌での発表により眼科医の殆どが医学知識として有していたであろうことは推定でき、少なくともそれが専門医として有すべき一般水準であり決して最高水準でるとはいえないと考えるが、仮にそれが高度な知識であるとしても、医師はその当時の医学知識、医学技術を駆使し最善適正な治療を施すべきものであるから、高度な注意義務があるものであり、しかも被告病院は綜合病院で且つ未熟児センターを有することからすると、その性格から当然高度な注意義務が要求されるところがある。
更に、被告は原告伸二が二キログラム未満であり、しかも厳冬の飛騨であることを考えると、原告伸二を天理病院に運ぶことによる生命の危険はより大であつたと主張するが、<証拠>によれば、移送するつもりなら原告伸二に対し酸素投与をやめた時点(前記認定の如く一月二八日)でタクシーや救急車を使い、予備に酸素ボンベを積んででも移送は可能であつたことが認められる。右事実からすれば鼻腔栄養を切つた二月一二日、哺育器から出した二月二四日にはなお更移送が可能であつたことが推定できるものであり、<証拠>および弁論の全趣旨を綜合すると、原告伸二は二月一八日にはチアノーゼは哺乳時に口の周囲に出る丈となつており、呼吸不整も同日が最後となつており、二月二七日には哺乳力良好で沐浴許可が出ているところ、原告伸二の当該状態は原告伸二が哺育器もなく医者、看護婦の附添もなく原告達彦、同桂子、節子らによつて移送された三月一六日の直前の三月一四日、一五日の一般状態(哺乳時に口の周囲にチアノーゼ出現。)と体重を除いては殆ど変らないことが認められるところであり、かかる事実からすると悪化の傾向を認めた二月一九日ころには、原告伸二の一般状態は医師や看護婦が附添つた上携帯用哺育器を使用すれば天理病院まで充分移送可能であつたことが推定でき、自然寛解が絶望となり失明するかもしれないとS医師においてB医師に話した二月二七日ころには哺育器なしでも移送に耐ええたであろうことが推定できるものである。又、<証拠>によれば原告伸二を移送した三月中旬の方が二月中、下旬より気温が低いことが認められるから、厳冬の飛騨であるとの被告の主張はその理由がなく、以上種々の事情を綜合すれば、原告伸二の一般状態は天理病院への移送可能な状態であつたといわざるをえない。なお、<証拠>によれば、原告伸二以後生下時体重八一八グラム、九七二グラムの低体重児を高山被告病院から天理病院まで移送し光凝固の手術に成功したことが認められる。
<証拠>によれば天理病院への移送については通常携帯用哺育器に未熟児を入れ医師や看護婦が附添つてくることが多いが、原告伸二の移送については医師はおろか看護婦さえ附添つていないことが認められ、このことは矢張りその性質上妥当な処置とはいえないものである。
(三)、以上の如く、被告病院における酸素投与については原告伸二の生下時体重、一般状態からいつて、その量、期間とも生命細持の立場からやむをえないものであり、その点に過失は存在しないものの、他方眼底検査、ステロイドホルモンの投与、天理病院への転医等に関して被告病院原告伸二担当医師としての前記注意義務を欠いた各措置に因り原告伸二は失明するに至つたものと判断されるから、被告は原告らに対し、原告伸二の失明により原告らの蒙つた物質的、精神的損害を賠償すべきである。かかる如く、被告は原告らに対し損害を賠償すべき義務があるところ、原告伸二の失明の責任は唯単に担当医師の網膜症に対する認識の不充分さのみが追求されるべきものではなく未熟児センターを有するにも拘らず未熟児センターの存在理由を深く認識しない被告病院全体の問題として再検討されるべきものであると考える。
三そこで、原告伸二の失明により原告らが蒙つた物質的、精神的損害について判断する。
(一) (原告伸二の得べかりし利益)
原告伸二が昭和四四年一二月二二日出生した男児であることは当事者間に争いがなく、その存立、成立および内容が当裁判所に職務上顕著な昭和四六年簡易生命表によれば原告伸二の前記失明当時(前記認定の如く退院日四月一四日(生後一一四日目)をもつて失明が確定した日とする。)における同人と同年令者の平均余命は七〇・七〇年であるので今後七〇・七〇年は生存し、原告主事の如く満二〇才に達した時から満五五才に達するまで三五年間は稼働が可能であると推認できるところ、原告伸二は前記失明当時未だ日令一一四日目であり、同人の将来の職業、収入を確実に推定することは至難であるがかかる場合は原告伸二は通常の全産業常用生産労働者(男)の平均的な賃金をその稼働可能期間中を通して取得するとして計算し、原告伸二の収入を推定するのが相当であると解するところ、<証拠>によれば、昭和四六年六月当時における全産業男子生産労働者の月間きまつて支給をうける現金給与額は七万〇、〇〇〇円であることが認められるので、その平均年間収入は八四万〇、〇〇〇円となり、これに<証拠>により認められる年間賞与その他の特別給与額一九万五、〇〇〇円を合算した一〇三万五、〇〇〇円が平均年間総収入となり、本件医療過誤による原告伸二の労働能力の喪失率は一〇〇パーセントと解するのが相当であるので、右金額を基準として年五分をライプニッツ方式計算方法により控除し原告伸二の稼働可能期間中の推定平均年間総収入の原告伸二失明当時における逸失利益現価額を算出すると(なお、原告伸二は〇歳とし計算する。)、六三八万七、二五五円(円未満切り捨て。)となり、原告伸二は本件医療過誤によつて右同額の得べかりし利益を失つたといえる。
(二) (原告伸二の慰藉料)
原告伸二は一生暗黒の世界に生き続けねばならず、本件失明により原告伸二の被つた肉体的精神的苦痛は筆舌に尽し難いものであろうことは想像するに難くないが、一方被告病院においても前記の如く原告伸二の生命維持については相応の尽力をなしていること、その他、当時の眼科医学界全般における網膜症についての知識水準の段階等からみるときは被告病院側の過失内容についても充分斟酌すべき点が存すると考えられること等の事情を勘案すると同原告に対する慰藉料額は五〇〇万〇、〇〇〇円をもつて相当と認める。
(三) (原告達彦および同桂子の各慰藉料
前記認定の如く、原告達彦、同桂子は原告伸二の両親であるところ、<証拠>および弁論の全趣旨を綜合すれば、原告達彦、同桂子らは原告伸二出産の喜びから束の間、奈落の底に落とされ、日夜介護を要すべき身となつた実子原告伸二に格別の配慮をしなくてはならないものであり現在および将来に亘つて原告達彦、同桂子らの蒙るべき精神的苦痛は前同様筆舌に尽し難いものであろうことはこれも充分推察できるが、前記のとおり原告伸二に対し逸失利益、慰藉料の支払がなされることによりその苦痛は幾分なりとも緩和されるものと考えられ、その他前記諸々の事情を考慮して考えるとその苦痛を慰藉するためには被告から各金一五〇万〇、〇〇〇円の支払を受けることをもつて相当と認める。
(四)、(弁護士費用)
不法行為により損害を被つた被害者がその賠償を求めて訴提起する場合、その権利の実現のためには通常専門家である弁護士に委任しなくてはならないことを考えると、不法行為債務者の不当な抗争の有無に拘らず、その弁護士費用もそれが不法行為債権の取立てのために必要な限度で債務者の負担に帰するものと解せられるところ、弁論の全趣旨によれば原告らは本訴提起に当たり原告ら訴訟代理人に対し原告伸二につき金八〇万〇、〇〇〇円、同達彦、同桂子につき各金一〇万〇、〇〇〇円をそれぞれ支払う旨約したことが認められるが、本件事案の内容、訴訟の経過、前記認定額その他諸般の事情を考慮すると、弁護士費用として被告に賠償を求める額は、原告伸二につき金六〇万〇、〇〇〇円同達彦同桂子につき各金一〇万〇、〇〇〇円が相当である。
よつて、原告らのその余の債務不履行の主張は判断するまでもない。
四(結論)
以上の次第であるから、被告は原告伸二に対し金一、一九八万七、二五五円、原告達彦、同桂子らに対し各金一六〇万〇、〇〇〇円およびこれらに対する本訴状送達の翌日であることが本件記録上明らかな昭和四七年三月二四日以降それぞれ完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払義務があるので、原告らの本訴請求は右の限度で正当であるからこれを認容し、その余の請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条但書、第八九条を、仮執行宣言につき同法第一九六条を各適用して主文のとおり判決する。
(石川正夫 山口忍 古屋紘昭)
計算書<略>